桜蔭 2023年 大問1の文章

●2020年6月5日(中略)

こんばんは。

作家の高橋源一郎です。

少しずつですが、
日常が戻りつつあります。

みなさんはどうでしょうか。

前回の放送の直後、
おそらくはSNSでの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうのせいで、
ひとりの若い女性が命を絶ちました。

その、痛ましいニュースを耳にしながら、
ぼくは、この番組でも紹介した、
「新型コロナウイルス」の流行以降、
世界中でもっとも読まれている本、
カミュの『ペスト』の、
ある登場人物のことばを思い出しました。

彼は主人公である医師のリウーに
こう告白します。

「誰でもめいめい自分のうちに
 ペストをもっているんだ。

なぜかといえば誰一人、
まったくこの世に誰一人、
その病気を免れているものはないからだ。

そうして、引っきりなしに、
自分で警戒けいかいしていなければ、
ちょっとうっかりした瞬間に、
ほかのものの顔に息を吹きかけて、
病毒をくっつけちまうようなことになる。

自然なものというのは、
きんなのだ。

そのほかのもの健康とか無傷とか、
なんなら清浄といってもいいが、
そういうものは意志の結果で、
しかもその意志は
決してゆるめてはならないのだ。

りっぱな人間、
つまりほとんど誰にも
病菌を感染させない人間とは、
できるだけ気をゆるめない人間のことだ。

しかし、
そのためには、
それこそよっぽどの意志と緊張をもって、
決して気をゆるめないようにして
いなければならんのだ」

口から出る「息」に含まれ、
他人に感染して傷つけるもの。

いうまでもなく、
それは「ことば」に他なりません。

「ペスト」を、いや、あらゆる、
人を傷つけるウイルスを、
ぼくたちはみんな持っているのです。

ぼくは半世紀以上も前から、
カミュの愛読者で、
およそ手に入るものは
みんな読んできましたが、
いまのことばに、
カミュが生涯しょうがいをかけたメッセージが
まっていると思っています。

人を傷つけることばをくことが
いけないことは、誰でもわかる。

けれども、なぜか、カミュは
「誰一人、まったくこの世に誰一人、
この病気をまぬがれているものはない」
というのです。

誰でも、自分は正しいと思って、
ことばを発します。

それでも、そのことばは、
どこかで誰かを深く傷つける。

どんなことばでも。

それがいやなら、
沈黙するしかありません。

それを知りながら、カミュは、
ことばを発すること、
書くことをやめませんでした。

だから、カミュのことばは、
自信たっぷりではなく、とまどいながら、
自分自身を疑いながら、
おびえながら、書かれています

それだけが、「ペスト」のように感染し、
人を傷つけることばにならない可能性を
持つことを知っていたのです。

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