■次の文章を読んで、要約しなさい。
※オリジナル問題
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次の文章は、校正者が自身の
仕事について書いたものです。
(中略)
なお、校正とは
本が出版される前に文章を読んで、
内容の誤りを正したり
不足な点を補ったりすることです。
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観光船サークルラインは、
マンハッタンが、縦に細長い、
しかし極度に稠密的な島であることを
実感できる格好の乗り物だ。
船は、ハドソンリバー岸を
出発点とし南下、
自由の女神像を眺望しつつ、
かつて世界貿易センタービルが
聳え立っていた
マンハッタン南端を回って、
イーストリバーに入りこれを
北に遡行する。
ウォール街のビル群、
ニューヨークマラソンが通る
ブルックリンブリッジ、
やがて現れるスタイリッシュな
国連本部ビル。
アールデコのクライスラービル。
白い羊羹を削ぎ切りにしたような
シティコープビル。
ひときわ高いエンパイアステートビル。
次々と見せ場がやってくる。
(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』より)
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サントリー学芸賞、
新書大賞を受賞したベストセラー
『生物と無生物のあいだ』は
こんなふうに始まります。
著者の研究者人生の起点になった
アメリカはマンハッタン。
トランクひとつを手に旅立ち、
与えられた研究室の窓から
イーストリバーを見下ろすと、
満員の観光船が川を行きなっている。
かつてはあの船の上から
マンハッタンの摩天楼を見上げる
観光客のひとりだった自分が、
いまは同じ船をこうして見下ろしている…
映画のような映像が
目に浮かぶプロローグです。
ところが、そんな原稿を
編集者に渡してしばらくしてから、
著者のもとに送られてきたゲラには
「バーンとマンハッタンの
地図のコピーが貼り付け」られ、
「各ビルの位置が
マーカーペンで塗られていた」
のだそうです。
何事かと思えば
「見える順番が違います。」。
位置関係からして
エンパイアステートビルが見えるのは
クライスラービルよりもずっと前、
国連ビルが見えるのは
さらにその後ではないか、
という校正者からの指摘でした。
「見える順番が違います。」
などという指摘、
自分にはできる気がしないと
腰が引けてしまうのは
地理に苦手意識があるからです。
方向音痴という引け目があって、
いつまでたっても地図と仲良くなれない。
ランドマークの名称を確認するだけなら
辞書でもこと足りますが、
地図を広げひとつひとつ印をつけ、
観光船の航路をたどりながら
位置関係を確かめて、
船上から見える景色を
想像していくことで初めて
「見える順番が違います。」と気がつける。
著者はこの指摘を読んで
「確かに校正者さんの言うとおり。」
と認めます。
そのうえで
「この部分は、書いたときの流れを
尊重してもらってこのままとした。」
というのです。
テレビやSNSの影響か、
校正の仕事の中でもとりわけ
「校閲」の部分が注目されることが
増えました。
調べもの、事実確認、
ファクトチェックがありますが、
固有名詞や数字、
事実関係に誤りがないかどうかを
信頼のおける資料を使って調べ、
確かめる工程です。
文字や言葉の誤り以上にこうした
「事実」に誤りがないか
神経を尖らせるのは、
「事実」は誰の目にも
正誤が明らかな事柄だからです。
文字や言葉で
「誤り」とされるものの中には、
かならずしも誤りとは
いいきれないものもあります。
でも、固有名詞や数字などの誤りは
誰が見ても歴然とした「誤り」、
新聞の校閲記者は
「あってはならない致命的なもの」
とさえいいます。
ビルの「見える順番が違う」のは
事実に反している。
だから改めねばならない。
そう考える読者がいたとしても当然です。
ですが、校正とは
はたしてすべてを「事実」に即して
正すべき仕事なのでしょうか。
新聞やノンフィクションのような
事実を伝えるためのメディアにおいては、
正確であることは大前提です。
たったひとつの発言の裏を取るために
東京から北海道まで足を運ぶ、
著者のそんな地道な積み重ねを、
校正者が裏付け補強する。
でも 『生物と無生物のあいだ』は
そうした性質の文章ではありません。
著者が「考えた末」に
「書いたときの流れを尊重して
もらってこのままとした。」というのは、
この文章においては
事実よりも優先されるべきものがある
ということです。
頭の中で何十回も何百回も
反復された記憶は、
事実とは違っているかもしれない。
でも、その人にとっては真実です。
「目ざとい読者が
そのうち指摘してくるかもしれない。」
と著者はいいます。
「でも私はあえてこう書いたのです。
そういえるプロセスが
ここには含まれている。」と。
校正者は
「事実としては、
こうではありませんか。」と
指摘はします。
採る/採らないは編集者と著者しだい。
採られなかった指摘も
無駄にはなりません。
読者からの問い合わせに編集者は
「ご指摘まことにごもっとも。
ですが著者は
“あえて”こう書いたのです。」
と答えることができる。
費やされた時間は
建築物の筋交(か)いのように
見えないところで文章を強靭にする。
「活字の未来」と題された文章は、
こんな一文で締めく られています。
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書き手、編集者、校正者。
この間のてまひまが
活字というものを支えているのである。
(福岡伸一『ルリボシカミキリの青』)
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(牟田都子『文にあたる』より)
※マンハッタン
…アメリカ合衆国、
ニューヨーク市中心部の島。
※ゲラ
…校正をするために仮に刷ったもの。
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■解説・解答
まず、私がこの文章で
重要だと思ったところを紹介します。
★「固有名詞や数字などの誤りは
誰が見ても歴然とした『誤り』、
新聞の校閲記者は
『あってはならない致命的なもの』
とさえいいます。」
★「ですが、校正とは
はたしてすべてを
『事実』に即して
正すべき仕事なのでしょうか。」
★「校正者は
『事実としては、こうではありませんか。』
と指摘はします。
採る/採らないは
編集者と著者しだい。
採られなかった指摘も
無駄にはなりません。」
★「費やされた時間は
建築物の筋交いのように
見えないところで文章を強靭にする。」
★「書き手、編集者、校正者。
この間のてまひまが
活字というものを支えている」
※筆者(牟田さん)の
言いたいことを捉えましょう。
※具体的な内容ではなく
抽象的な内容を拾います。
次に、上記のものをまとめた
私なりの要約を載せておきます。
「事実の誤りは
誰が見ても歴然とした『誤り』であり
新聞の校閲記者は
『あってはならない致命的なもの』
とさえいうが
校正とはすべてを『事実』に即して
正すべき仕事ではなく
事実の指摘のみに留まり
その指摘を採用するかどうかは
編集者と著者しだいである。
しかし、
採用されなかった指摘も
無駄にはならない。
なぜなら著者、編集者、校正者によって
費やされた多くの時間が
見えないところで
文章を強靭にするからである。」
※同じ内容は1つにし、
読み易いように整理しました。
※「書き手」≒「著者」なので
表現を「著者」に統一しました。
☆解説
例えば、小説のようなフィクションは
実際に存在するビルなどの位置関係が
事実と違っていても
それを直すかどうかは
編集者と著者に委ねられるが
最終的に直されなかったとしても
校正者が指摘したことは
無駄にはならない。
なぜなら、そうやって
多くの時間と手間をかけて
作られた文章こそが
良い文章になるということですね。
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■おまけ
灘中学はよく
「文章を表現すること」に関するものが
出題されますね。
ちなみに
福岡伸一さんは生物学者で
京都大学をご卒業後
ニューヨークにある
ロックフェラー大学などで
研究をされています。
生命の根源について書かれた
『生物と無生物のあいだ』は
60万部を超えるベストセラーに
なりました。
牟田都子さんは図書館員を経て
出版社の校閲部に勤務後
フリーランスで書籍や雑誌の校正の他
ご自身でも本を書かれています。
『文にあたる』は2022年の
8月10日に発売されました。
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